遠回りと寄り道と、少しの後悔と
20XXとは関係ない話。
人間50年。
じんかんと読むと人の世、人生を指す。
織田信長の行く末を知る私たちは、敦盛の舞に何を見出すのだろう。
いまは人生100年時代、らしい。
誰が決めたのだろう。
敢えて言えば、食生活と衛生環境と医療技術に支えられた平均寿命に依るのだろう。
ならば、いま信長が生きていたら人間100年と舞うのだろうか。
私たちはどこかで物差しを必要としながら生きている。少しでも確かな何かを求めながら。できれば失敗したくない。
それは何故だろうか。
漠然とした、時にはっきりとした不安を恐れて怯えているからだろうか。
誰かの人生を歩むわけではない。
自分の人生を歩むしかないのである。
コロナ禍の今になっても、どこかの誰かの何かと比較する世の中が続いている。
刹那的になりがちではあるけれど、ゆっくり生きてたくさん遠回りすればいい。
下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり。
そこに儚さ、諸行無常を見出す時、今日を必死に生きようとすることも大切だが、それが誰が求める姿であるとしたら長くは続かない。
空気は大きく吸っても、吸った分吐かなければならない。足るを知りながら、前に進めていることだけで十分である。
何かに後悔した時、息をゆっくり吸ってみる。
敦盛を舞おうと思わなくても、生きているだけで十分だと思えたらハッピーである。